トンネル抜ければ夏の海

天国にいる夫との穏やかな日々

生まれて5ヶ月の夫

旅立った家族がいる場合、

「生前は○○が大変お世話になりました」

などと言う習慣がある。

亡くなったのに【生前】とは、これいかに。
この世での人生はプロローグ、プレライフ?
輪廻転生か永遠の命か、宗教毎にいろんな教え、見解があるでしょう。

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たくさんの死後の世界について本を読んでいる。違いはあれど、

【現世が終わりではない】

は、一緒だ。

最近読んだ、フェヒナー博士の

【死後の世界は存在します】

に感動しました。

フェヒナー博士は約180年前に霊界を解明した物理学者であり哲学者です。

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その中で、泣いてしまうほど胸を打たれた文章を記しておきたい。

生者が死者を

思い出すということ


現実の話として、生者の霊と死者の霊が無意識のうちに、あるいは片方だけが意識的のうちに、さまざまな形で出会うことはありえる。
だが、いったい誰がこの生者の霊と死者の霊の交流の全過程を追跡し、突きとめるというのだろうか?。
その答えを簡潔に言おう。
霊たちは共通意識の中で出会うのだ。
霊はどこにいるときも、きわめて意識的に存在している。意識をしてるがゆえに出会うことが出来るのだ。
そして、生者と死者がもっとも高いレベルで
意識的に出会う方法がある。
それは、生者が死者を思い出すことである。
私たちが死者に注意を向けることで、死者の注意を私たちの方へと向けることができる。
これは、人の魅力がそれに気づいた人に対して相応の引力を発揮するのと同じことだ。
死者に対する記憶とは、私たちが知ってるその人の、この世での人生を振り返ることによって生まれる新しい意識である。
しかし、死者を思い出すことで、あの世にある魂は間違いなくこの世へと導かれてくるだろう。
生きている人間が(いきている)他人のことを考えたときにも、意識の上で相互刺激が起きるが、その刺激はお互いの身体の中に閉じ込められているために作動しない。
ところが、死によって意識が身体から解放されると、その意識は自らの居場所を探しもとめ始める。
そして、この世では電流と呼ばれるものより、ずっと早くて強力な流れに乗ってやってくる。
生者が死者の記憶を思い起こすとき、思い起こす側と思い起越される側が同時に、同一の意識的衝撃を感じる。
残念ながら、私たちはこちら側の意識だけしか認識しようとしない。あちら側の意識を認識したいために、私たちは判断を謝るのだ。
この失敗は思い違いと損失という結果をもたらす。

生者も死者も進歩する


愛する人との別れのときが訪れ、夫や妻は伴侶と、子は親と死別する。そして、残された者たちは、引き離された者を遠く離れた天国に空しく探しもとめる。
虚空に目をやり、腕を差し伸べる。
だが、実際には、愛する人は彼らから取りあげられたわけではない。何故なら、相互の適応と理解という外面的なつながりの糸は切れてしまったとはいえ、自分の内側にある意識の奥深くから、何もさえぎるもののない深いつながりが姿を現すからだ。
ただし、そのつながりは人には未知の存在のため、人は認識することができない。
私はかつて、母親が赤ん坊を腕に抱きながら、庭や家のなかを心配そうにその赤ん坊を探してるのを見たことがある。遠く離れたさびしい場所に死者がいると思っている人は、この母親以上に大きな間違いを犯していると言える。
自分の内側を見つめさえすれば、愛する人はそこに存在してるというのに…。
たとえ母親が赤ん坊を腕に抱いていても、その子の存在を意識してないとしたら、我が子を手にしてるとは言えない。そうした状態では、母親は我が子に言葉をかけたり、目をむけたり、世話をしたりといった外面的な関係による満足を得ることも与えることも出来ないだろう。
そういう状況に陥って初めて、母親は内面的な関係による満足を得ることができる。すなわち、我が子との間に内面的な関係を存在することを認識さえすればいいのだ。
私たちは存在していないと思う人に言葉をかけたり、手を差し伸べたりしない。
しかし、すべての真実を知ったなら、生者にとっても死者にとっても、新しい人生が始まることだろう。
その結果、生者だけでなく死者も進歩するのだ。

夫も私も、新しい生活スタイルで~
共に生きているんだなぁ。

また、

この新しいスタイルになってからの方が、
私は夫に素直に何でも話せてると思う。